新聞の片隅に、野球青年と家族との愛が載っていた。福島県小高工業高校は福島第一原発から18キロのところにある。彼の家は高校のすぐ裏、家にも帰れない、学校にも戻れない、彼らは野球がしたかった。
両親が、学校に道具を取りに入った。ボールやバットは手に入ったがユニホームやグラブを流され、OBたちがユニホームやグラブを集めてくれた。野球部員は別々のところに避難しながらも、野球をしようと連絡を取り合った。震災後2ケ月間練習ができなかった。他の学校に間借りして授業を受ける、練習場は外野が4マイクロシーベルト、内野は2マイクロシーベルト。それでも野球をやれるのがうれしかった。夢中でボールを追いかけた。甲子園の予選がはじまるまでに全員が集まるのは1回だけ、練習は十分にできない、野球の道具を 集めたり、人を集めたり、練習場所を探したりしながら、絆が深まった。県大会初戦勝ってしまった、「先生勝った。うれしい」電話の向こうでお母さんが泣いている。震災のために母と父は失業中。家は20キロ圏内にあったがもう住めない今は、6畳と4畳半2間のアパートを借り家族5人が生活している。贅沢は言わない、1回だけ勝たせてあげたかった。母親の気持ちだ。震災後はバラバラに避難し、それぞれの場で入学式や始業式があった。そんな中400人の生徒が初めて集まった。勝てたおかげで、震災後初めてみんなで校歌を歌えてうれしかったと彼は思った。小高工業高校は就職率が過去5年100%。素直な生徒が多く、スポーツも盛んで 評判の高い高校だった。小高工業高校は20キロゾーンでたった1校、ベスト4に残ったが、準決勝で惜敗した 家を流され、仕事を失った人、家族を亡くした人、たくさんの悲しみの中にいるひとたち、彼らの野球が夢と希望を与えてくれた。みえない放射能に負けない青春が、ある・・・・・この新聞の一面を読んでいると、今こうして 日々暮らしてる私たちがどれだけ贅沢か、・・・・・早い復興を願うばかりです。
by sigyo
| 2011-07-30 15:40
| その他登山
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